大河ドラマ「麒麟がくる」記念~明智光秀特集~
2020年NHK大河ドラマ「麒麟がくる」決定
「麒麟がくる」をもっと楽しむために
2020年のNHK大河ドラマが、以前から噂されていた明智光秀を主役にした「麒麟がくる」に決まりました。
ドラマが始まるまでまだ1年半ほど。
もっともっと「麒麟がくる」を楽しめるように、城サイト管理人として出来ること・・・・
明智光秀ゆかりの地などを紹介していきたいと思います!
概要
原作はなく、1991年の太平記(原作:吉川英治氏)を手掛けた脚本家・池端俊策氏がオリジナル書下ろしで構成。
主演は2013年の八重の桜で、新島八重の最初の夫、川崎尚之助を演じた長谷川博己さんと発表されています。
主要キャスト
明智光秀役:長谷川博己
※2018年8月現在まだ他のキャストは発表されていません
明智光秀とは?
織田信長に出会うまで
出生については諸説あり、明確にされていませんが1530年前後に、岐阜県可児市の明智城で誕生したとされます。
清和源氏の土岐氏一族とされ、美濃の斎藤道三に仕えていたとされます。
その後、道三が戦死すると、越前の朝倉義景に仕え、その際、足利義昭と接触したと伝わっています。
義景に仕えながら、義昭の使者も務める立場で織田信長と出会うことになります。
織田信長四天王としての活躍
永禄11(1568)年に義昭が上洛するあたりから、義昭、信長両方の家臣を兼務していたとされますが、両者の関係が冷え切り、元亀4(1573)年に槇島城で激突した際には、光秀は信長方につき足利幕府の終焉に直接的に力を注ぎます。
織田家中では秀吉よりも上位で、四天王(他は柴田勝家、滝川一益、丹羽長秀)とされ、滋賀の坂本城、丹波の亀山城、福知山城などを治め、200万石相当の大身であったと考えられています。
伝わる逸話
光秀は生きていた?!
徳川幕府草創期に南光坊天海という僧が活躍したと言われています。
「黒衣の宰相」と呼ばれ、徳川家康の側近として関ヶ原の戦いにも出陣したと伝わる人物です。
この天海こそ、明智光秀ではなかったのかという説があります。
その証拠としてよく言われることに、江戸城には桔梗門(光秀の家紋が桔梗)があったり、3代将軍・家光の乳母が光秀の重臣・斎藤利三(自身も本能寺の変に参加、その後の山崎の合戦で敗れ、捕まり京都・六条河原で斬首)の娘、春日局が務めたり家光の「光」が光秀の「光」とも読み取れる・・・等が言われています。
もちろん確証はありませんし、戦国時代の様々な英雄は織田信長、真田幸村(信繁)など同様に「生存説」はつくもの。
誰にも分からないことですが、光秀もまた戦国時代のミステリアスなベールに包まれた人物であり、それが彼の魅力を掻き立てる要素の一つにもなっているのだと思います。
ゆかりの地
戦国最大のミステリードラマの舞台・本能寺
言わずと知れた本能寺の変の舞台。
ただ今の寺町商店街沿い、京都市役所そばの本能寺は、信長が討たれ、その後秀吉が移転したもの。
後幕末に、長州藩邸が近かったため、薩摩藩の攻撃で消失。
今の本堂は昭和3(1928)年に再建されたものです。
本能寺の変の舞台だった本能寺は、堀川高校付近だとされます。
本能寺へ出撃した道
光秀は亀山城を出撃し、3隊に分かれて本能寺を目指したと言われています。
そのうち、光秀本隊が本能寺を目指したのがこの道で、付近には保津城跡も堀跡などが残されています。
光秀最期の地、小栗栖の明智藪
光秀は山崎の合戦で秀吉に敗れた後、勝竜寺城に一度退避。
その後、滋賀の坂本城に戻り体制を立て直そうとしたと言われていますが、最も有力な説として、京都伏見の小栗栖にで土豪によって討ち取られた言われています。
安土城に匹敵する名城と謳われた坂本城
比叡山焼き討ち(1571年)の後、近江滋賀郡の経営を任された光秀は、今の西大津坂本に城を構えて本拠としました。
宣教師ルイス・フロイスによると、安土城に匹敵する名城だったと言われます。
その後、光秀は丹波平定に成功すると、今の京都亀岡に亀山城を、福知山に福知山城を構え、全ての支配を信長に許され亀山城、坂本城を共に本拠として利用したとされます。
本能寺への出撃拠点となった亀山城
天正7(1579)年に丹波平定に成功すると、翌年、信長から近江に加え丹波の統治も許され、亀山城を整備。
本能寺の変に於いては、この亀山城を拠点に出撃していきました。
現在、大本教の拠点となっていますが、受付で亀山城を見学したいと申し出ると、形式的にお祓いを受けますが、気軽に見学させていただけます。
光秀築城の続日本100名城・福知山城
丹波平定(1579年)を果たし信長に丹波経営を任されると、福智山と名を改め築城。
自身は現在の亀岡にある亀山城、西大津の坂本城を拠点とし、福知山城には一族の明智秀満を城代として入れたとあります。
長い福知山の歴史で、光秀統治時代はわずかですが、今も地元の英雄として、福知山城訪問の際には大河ドラマ誘致の署名などもされていました。
天下分け目の「天王山」山崎古戦場
本能寺で信長が討たれると、中国地方攻め中だった羽柴秀吉は急遽京都へ。
天王山麓の山崎において光秀軍と戦いました。
結果はご存知、光秀が敗れ後に「三日天下」と呼ばれ、事実上の明智体制は短命で崩壊することになります。
落命前、最後に過ごした勝竜寺城
山崎合戦で敗れた光秀は、子同士が婚姻関係にあった細川藤孝のかつての居城で、丹後へ移動してから、本能寺の変後、光秀の属城となった勝竜寺城に一時退避。
ここから大津の坂本城へさらに逃げようとしましたが、途中、伏見の小栗栖にて命を落としたとされます。
この城は、細川忠興とガラシャが新婚生活を送った城としても著名です。
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